ある記事が目に留まった。今年、洋服に関して唯一足を運び続けた店が閉店した。
とは言え、ここ数年は洋服を購入するためではなく、オーナーの方と店に集まる人達に会いに訪れていたようなものではあるが。店のオーナーが選んだモノを求める。つまり、それは選んだ人、もしくはモノの作り手に人が集まるという事であろう。
国を問わずに様々なサービスを受けることができる今日において、店に足を運ぶという行為にはそれなりの理由がともなう。
僕の場合、先の店においては人に会うために足を運んだ。
他の場合ではある限られた店でしか入手できない等の理由もあるかもしれない。
しかし、何か必要なモノがある場合、具体的に必要な機能をgoogleすると大抵はどこかしらで見つかるのである。
そして国内であれば、翌日には自宅に届く。
日用品ですら購入する場所が無いという地域にとっては、良い時代になった。
一方で街を歩くと似たような雰囲気の店が多くなった。
大手企業が専門店のように運営する店が多くなったからかもしれない。
接客されて聞く話も、見れば分かるという内容が多い。
そうなると店で実物を確認、オンラインで購入、自宅に届くという流れになるのは当然である。
モノを知っている人であれば、実物を手に取ってみる必要性も少なくなるであろう。
需要する側にはそれぞれの思いがあり、価値を見出す部分も異なる。
特に日用品以外のものとなると、供給する側にとってはそれなりの付加価値が必要となる。
もちろん、それは使用素材であったり希少性という点もあるであろう。
しかし、重要であるのは何かが生まれる背景、つまりカルチャーなのではないだろうか。
このカルチャーを伝える事がファッションやアートと呼ばれるものを供給する側の役目であると考える。
しかし問題はモノが溢れてカルチャー、そしてライフスタイルをも金で買えると錯覚している点である。
その昔、TVから聞こえてきたあのフレーズである。
There are some things money can’t buy….priceless.
僕には外国語教育というのも同じ問題に思える。
そして最近思うのが、良いサービス(モノ)とは何かということである。
良い素材を使えば、それなりのトレーニングを積んだ人であれば良いモノはつくることができる。
非鉄金属より貴金属。アクリルより毛。輸入野菜より有機野菜。
素材自体に価値があれば尚更である。しかしその価値も常に変化する。
そしてプログラムがプログラミングをするように、人手が不要となってきている。
ヒトでしか成し得ないものとの境界線に転換点があるのではないだろうか。
それは、価値観というものを生むのも変えるのもヒトであるからだ。