食器類を処分。
カップ、グラスを1組ずつ残して全てを処分した。
hazel atlas や termocrisa等の耐熱ガラス類。
そして、米国向けに輸出していた日本製のディッシュウェアを好んで所有していた。
ベランダでの土いじりができなくなり処分を決めた。
そして唯一の食器はステンレス製のボウルとなった。
数年前の誕生日に友人からナイフをプレゼントされた際に、数本所有していた包丁も処分した。
プレゼントというのは関係性が出るものだ。
例えばどんなに高価な財布をもらったとしても、僕は財布を使わない。
きっと誰かに譲る(処分する)だろう。
この友人からは沢山のプレゼントをもらった。それは食事だ。
手料理をご馳走になる。これは僕にとってこの上ないプレゼントである。
料理というものを意識したのは小学校の給食の時だ。
ほうれん草のピーナッツ和えという献立があった。
確かほうれん草と人参、あとはもやしか何かだったろうか。それらをピーナッツで和えたものだ。
使われている食材は全て僕の好きなものであるにもかかわらず、
どうしてもこの一品が食べられなかった。
そして十代の頃、他人の家で過ごす事が多くなり自然と料理をするようになった。
今思うと母親の影響というものは大きい。
どんなに忙しかろうと、彼女は料理は欠かさなかった。
すると、身体が手料理というものを覚えているのである。
ほうれん草と人参ともやし、そしてピーナッツがあれば
これを書いている今ですら、いくつかの料理が思いつく。
相手がいるとなると、さらに増えるだろう。
これは創作と同じである。
きっと子供が同じ食材を手にしたら、驚くような料理をするはず。
音楽があるように食楽というものがあるのではないか。
これが音学、食学となると、また別のものになる。
受刑者によるレストランというのもある。
”豊かさ”の再定義が必要な気がする。
ついでにクリエイターとかクリエイティヴというのも。
dumped’em.
HEAVY, THICK, MUCH →LIGHT, LESS, SIMPLE