かれこれ20年以上使用している箸。
祖母から京都のお土産としてもらった品である。
漆 塗りのもので、特別なケア等は何もしていないが、今でも当時のまま現役である。
きっと箸として機能する間は使い続けるだろう。
その祖母が亡くなった。父親が亡くなってから丁度6ヶ月後。
1年の間に2人の家族がいなくなった。
1年の間に2度も喪主を務めた母親には頭が下がる思いである。
ようやく四十九日の法要が終わり、
本位牌に魂が移り仏となるそうだ。
そして、墓を購入した。(購入といっても資産にはならない)
母親のものを含めて3人分である。
樹木葬が第一候補であったが、まだまだ条件の合うものが少ない。
しかし、最初に若者文化を形成した今の60代の世代からは
こういった方法が主流になっていくであろうと思われる。
そして、購入したのがコインロッカーのような墓である。
(多くの墓地がそうであるように購入ではなく、実質は場所使用料でありショバ代のようなものである)
それぞれ父親、母親、祖母の順で3つのスペースを確保した。
僕より母親が先に亡くなった場合は、このスペースに骨を納める事になる。
逆の場合、僕の骨は廃棄処分の予定だ。
スペース確保に当たって、僕が出した条件は年間費不要という点だ。
それと母親曰く、今後墓参するかもしれないとのこと。
その場合は個別に墓参したいとの事で条件が合致したのが今回のコインロッカー墓であった。
団塊の世代の一人としては、ここまでが限界であろうか。
すでに宗派不問で墓ビジネスを行っている寺社が多いところを見ると、
団塊の世代を境に無駄な事柄が淘汰されていくであろうと思われる。
それこそ、ある映画のように
肉体のみが消えて人間の意識をアップロードする時代はそう遠くないであろう。
そうなれば、それこそ墓など不要である。
良い方向に進むのか、もしくは1984年の進化したような世界になるのだろうか。
納骨にあたって必要行事を行い、骨を納めて完了となった。
次に僕が墓に行くのは母親が亡くなった時であろう。
いや、その前に会う事のなかった祖父の墓じまいというものがある。
これがまたいろいろと面倒なのである。
僕はこの手の内容の話になると、子供の頃に見たあの光景を思い出す。
仏壇に供えられた後に干涸びて、捨てられた白米。
食べれば良いのに。
やはり、墓は不要である。